本邦に於ける動物崇拝(現代語訳5)

本邦に於ける動物崇拝(現代語訳)

  • はじめに
  • 海豚
  • 鶺鴒
  • 野槌
  • 海亀

  • 犬
    Ella the Snow Dog / jpctalbot

     ○犬を祀った例は、『峯相記』に
    「また粟賀犬寺者、当所本主秀府という者がいた。高名な猟師である。彼の従者が秀府の妻女を犯し、あまつさえ秀府を殺して夫婦になろうという密契があった。従者が秀府を狩場へ誘い出して山中で弓を引き矢を放とうとする。すでに害に及ばんとするとき、秀府の秘蔵の犬、大黒、小黒という2匹がいて、かの従者に飛びかかり左右の手を加えて引っ張る。秀府はが刀を抜き飛びかかって子細を尋ねたところ、ありのままに承伏した。従者を殺害し、妻妾を厭却して、道心を発して出家入道した。臨終に及ぶとき、男女の子がないので、所帯を2匹の犬に与えて亡くなった。犬2匹の死後は、領家の計らいとして、かの田畠を以て一院を建立し秀府並に2匹の犬の菩提を弔った。堂塔僧坊繁昌し仏法を行う。炎上のとき、尊像十一面観音と秀府2匹の犬の影像は北山に飛び移る。そこを崇めて法楽寺と号す云々、本地の跡に1堂1宇が今もある」とある。これは貞和4年(552年前)の記事である。

    これに似ていることは、アゾールスに犬の記念に建てた寺がある。天主教の尊者ロシュが数万人もの黒死病者を救ったが、自らこれに罹り苦しんだとき、この犬が食べ物を運んでこれを助けたという(Notes and Queries, 9th Ser. xii. pp. 189, 236, sept. 1903,)。アラビア及び欧州で行われた、犬が僧正に遺産を進呈した話については Axon, 'The Dog who made a Will, 'N. & Q., Dec. 24, 1904, p. 501.)を見よ。

    和漢三才図会』巻69にも忠犬を祀った話がある。犬頭社は三河国上和田森崎にあり、社領43石。犬尾社は下和田にあり、天正年中の領主の宇津左門五郎忠茂があるとき猟で山里に入った。白い犬がいて従って走る。1本の樹の下まで行って、忠茂はにわかに睡眠を催す。犬が傍にいて衣の裾を咬えて引く。少し目覚めてまた寝たところ、犬がしきりに枕頭で吠える。忠茂は熟睡を妨げられたのを怒り、腰刀を抜きて犬の首を斬る。犬の頭は樹の梢に飛んで大蛇の首に噛み付く。主これを見て驚き、蛇を切り裂いて家に還り、犬の忠情を感じ、頭尾を両和田村に埋め、祠を立てこれを祭る。家康公がこれを聞いて甚だ感嘆する。しばしば霊験があるので領地を賜う。云々。

    これを作り替えたとおぼしき話が馬文耕の『近世江都著聞集』にある。吉原の遊女 薄雲が厠に入ろうとすると、日頃愛していた猫がいっしょに入ろうとする。それを亭主がその首を斬ったところ、たちまち厠の下の隅に落ちて、薄雲を見込んでいた蛇を咬み殺した。薄雲はそのために猫塚を築いたとなり、『続捜神記』(『淵鑑類函』巻436に引いてある)に、会稽の張然が年久しく家に帰らないうちに、その妻が奴と私通し、夫の帰るのを待って殺そうとして、毒を飯肉に加えて供したが、然はその飯肉を犬に与えたが食わず、惟注晴唇を舐め奴を見る。奴が食べるように急に催促するので、然が犬の名を大声で呼び鳥籠と□しに、犬はたちまち奴の頭に食いついたところを然は奴を斬り、妻を官に付して殺した条がある。

    『宝苑珠林』巻45に、僧祇律を引いて、那倶羅蟲がバラモン教徒の子を救って毒蛇を殺したが、バラモン教徒はその蟲の口が血に濡れているのを見て、誤って、その子を害した者とし、これを殺した話がある。動物が主人に忠を尽くし、却って害をなす者と誤られ殺される話は多く、Clouston, 'Popular Tales and Fictions,' 1887 に挙げている。古話には、本来その土地に特生したものと他邦より伝来したものと2様あって、これを判ずることはすこぶる容易でないが(『早稲田文学』41年6月の巻に掲げている、予の「日本時代史に載れる古話三則」参照)、話の始末符合していることが多いことから考えれば、犬寺及び犬頭社の伝記は『今昔物語』39、陸奥国狗山狗咋殺大蛇などを通じて明らかに支那インドの話より出たのを知ることができる。付け足していうが、那倶羅(ナクラ)はじつはイクニューモン(※マングース※)という獣の梵名である。

     また山224頁に、四国に今もある犬神の迷信を記し落とされている。備前の人に聞いたところ「この迷信は最も伊予で盛んに行われ、諸部落に犬神筋の家が2,3軒ずつある。その家主家族に悪感を抱かせることがあれば、必ず犬神が加害者に憑き、発熱して犬の挙動をさせる。よって財物を寄付してようやくその害を解くという。この病に罹る者は備前邑久郡朝日村の1里沖にある犬島の犬石宮に祈るとはなはだ験があるといって、参詣が多い。もとは独立の1社であったが、例の合祀のため、同島の天満宮に合併されてしまったが、犬形の神石は、依然島側のひとつの島にある。この犬島は、菅公が流罪のとき、風波を避けて舟を寄せたところ、犬が別れを惜しんで鳴き、化して石となったという。よって天満宮と犬石宮を建てた云々」 

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    「紀州俗伝」は『南方随筆』(沖積舎) に所収。

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