南方熊楠のキャラメル箱

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当サイトについて

 南方熊楠は、英文による投稿論文や日本語による随筆や手紙、日記など膨大な文章を残しましたが、彼の思想の深い部分はおもに手紙のなかで語られました(南方熊楠主要著作)。
 当サイトでは、おもに南方熊楠の手紙を現代語訳してご紹介したいと思います。

 サイト名の「南方熊楠のキャラメル箱」は、昭和天皇に粘菌類の標本献上した際にキャラメル箱に入れて献上したエピソード(昭和4年6月、熊楠63歳)から。

 南方熊楠は粘菌110点をキャラメルの大箱に収めて献上しました。普通、桐の箱のような立派な箱に入れて献上するものでしょうが、キャラメルのボール箱。チャーミングです。昭和天皇は後にこのことを楽しそうに思い出されていたとか

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南方熊楠について

熊楠邸

 熊野が誇る世界的博物学者、南方熊楠(みなかた くまぐす、1867年~1941年)。

 南方熊楠は、明治から昭和の初期という日本が近代化に躍起になっていた時代にあって、18ヶ国語を理解し、博物学、生物学、人類学、宗教学、性愛学、民俗学、エコロジーなどの様々な分野の学問を縦横無尽に往来し、異能を発揮した世界的博物学者です。

 現在、世界で最も権威のある科学雑誌とされる『ネイチャー』に掲載された論文の数は51篇。『ネイチャー』に世界で最も多く論文が掲載された研究者が南方熊楠です。熊楠は東洋学の権威として世界に名を馳せました。

 熊楠はまた日本の変形菌(粘菌)分類学の基礎を固めた生物学者でもあり、柳田国男とともに日本の民俗学を創始した民俗学者でもありました。その膨大な知識から南方熊楠は「歩くエンサイクロペディア(百科事典)」と呼ばれ、柳田国男をして「日本人の可能性の極限」とまで言わしめました。

■ 熊楠のエコロジー思想を知る→ 神社合祀に関する意見南方二書

■ 熊楠の生涯を知る→ 履歴書

■ 熊楠マンダラを知る→ "南方マンダラ",「不思議」について…

■ 熊楠が愛した熊野を知る→ 紀州俗伝

 南方熊楠略年譜 南方熊楠エピソード 南方熊楠語録 南方熊楠グッズ

南方熊楠の生涯

熊楠邸

 南方熊楠は、慶応3年4月15日(1867年5月18日、明治になる前年)、紀州和歌山城下に生まれました。

 幼少時から『和漢三才図絵』全巻を筆写するなど、熊楠は和漢書により学問的基礎を築いていきました。和歌山中学卒業後、東京大学予備門に入学しますが(同期に夏目漱石、正岡子規など)、20歳で中退します(年齢は数え)。アメリカに渡って遊学し、隠花植物(菌類や地衣類、藻類、蘚苔類など)や粘菌を求めて各地を点々とします。

  26歳で渡英し、ロンドンへ。ロンドンでは大英博物館で東洋関係の資料の整理を手伝いをする仕事を得ます。大英博物館では資料閲覧を許され、博物学・人類学などの書物を筆写し、古今東西の知識を吸収します。科学雑誌『ネイチャー』や随想問答雑誌『ノーツ・アンド・クエリーズ』にしばしば論文を寄稿し、掲載され、欧米の学者に注目されます。チャールズ・ダーウィン、ハーバード・スペンサーと並んで世界三大碩学のひとりと謳われるほど、熊楠の名声は高まりました。またロンドンでは孫文と親交を結んでいます。

 14年に及ぶ海外遊学の後、 1900年(明治33年)、34歳で帰国。熊野の那智山の旅館の1室を借り、植物の調査を始めます。3年の植物調査の後、1904年(明治37年)、口熊野、田辺を訪れ、田辺の中屋敷町に家を借り、定住しました。その2年後の1906年(明治39年)、40歳で闘鶏神社の神官の娘の田村松枝と結婚。1男1女をもうけます。

 田辺では、隠花植物や粘菌の研究のかたわら、国内外に民俗学関係などの論文を発表(熊楠は那智や田辺という日本の辺地にあっても、『ネイチャー』や『ノーツ・アンド・クエリーズ』に寄稿を続け、『ネイチャー』には1914年まで、『ノーツ・アンド・クエリーズ』には1933年まで論文を発表しています)。
 しかし、ちょうど熊楠が結婚した年に施行された1町村1社を原則とする神社合祀令が熊楠の植物研究に影を落とします。

 明治政府は記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々を排滅することによって神道の純化を狙いました。
 熊野信仰は古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交して成り立った、ある意味「何でもあり」の宗教ですから、小さな神社は片っ端から合祀の対象となり、神社林が伐採されました。歴代の上皇が熊野御幸の途上に参詣したという歴史のある熊野古道中辺路王子社までもが合祀され、廃社となり、神社林の破壊が行なわれました。

 熊楠にとって神社林は貴重な生物が住む貴重な研究の場所であり、神社合祀の嵐が熊野に吹き荒れるなか、熊楠は神社林が破壊されることに怒りを爆発させ、神社合祀反対運動に立ち上がりました。地方新聞に神社合祀反対意見を投書し、住民を説得に出かけ、中央の学者に書簡で訴えるなど、神社合祀に対して死にもの狂いで闘いました。留置場に拘留され、罰金を課せられるなどの目に会いながら熊楠は命をかけて闘いました。

 熊楠の神社合祀反対運動が報われたのが、熊楠63歳のとき。1929年(昭和4年)、熊楠は昭和天皇への粘菌学の進講を行ないます。熊楠が保護に努めた田辺湾に浮かぶ神島(かしま)に昭和天皇を迎え、御召艦長門上で粘菌学を進講。粘菌標本110点を進献しました。
 神島は1936年(昭和11年)には国の天然記念物に指定されました。

 1941年(昭和16年)12月、日本軍の真珠湾攻撃からおよそ3週間後の29日に、熊楠死去。享年75。田辺郊外の真言宗高山寺に埋葬されました。

南方熊楠の生涯についてもう少し詳しく

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