千里眼(現代語訳3)

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千里眼(現代語訳)

  • 1 変態心理学
  • 2 亡父の示現
  • 3 幽霊と夢
  • 4 死の学問
  • 5 姪の詠んだ和歌
  • 6 黒田孝高
  • 7 昔の人の所行

  • 幽霊と夢

     

    夫婦杉
    大門坂 / み熊野ねっと

     またウチワカズラは、アサガオ属の一種、熱国の海辺に生じ、小笠原島、琉球にもある。四国、九州の暖地にもあるのかないのか、予は知らない。

    しかしながら一昨年の春、夢に紀州古座と串本の合の海浜の林間に、白い羊毛を密生した葉があるアサガオが生えているのを見た。ウチワカズラのラテン名を山羊の足(ペス・カブラエ)というので、羊の足と毛を取り違えてこのような夢を見たのであろう、と日記に控えて置いた。

    そうしたところ、玉置という人が串本近傍にてウチワカズラを採集した、と後で聞いた。また今年の春、富田の朝来帰(あさらぎ)くんが取った品を宇井縫蔵氏方で見た。

    何にいたせ、予が那智に籠居中、いろいろの示現、霊感のようなことがあった。また実際、顕微鏡的な微よう生物を志し集めるには、相場師と同じように夢兆など頼りにする他に宛てのないものである。このようにして時間、郵便物の到着、近いうちに死ぬ人、その他いろいろ言い当てることが上手い。

    追々は白昼にも幽霊を見るようになり、示現し教えてくれる者が、幽霊か夢かわからないようになったのでいろいろ考察してついに大発明と自ら思う結果を得た。

    それは人間生来直立するのを常とするものなので、夢に見る一切の現象は座っていても寝ていても夢見る人の顔面に平行して現われる。言い換えれば、自分の顔面に直角をなしている平面を舞台として現われる。しかし、睡裏でない覚醒中に現われる幽霊などは、見る人の顔面の位置方向の如何を問わずに、ただただ地面また畳面を舞台として現われるという一事である。

     さて、このような経験を多く記し集めて、長論文を草し、英国不思議研究会へ出そうと意気込んでいるうちに、人生は意のごとくにならないもの十常に八、九で、那智山にそう長く留まることもできず、またワラス氏も言っているように変態心理(サイキアトリ)の自分研究ははなはだ危険なもので、これ以上続ければ間違いなくキ印になりきるという場合に立ち至り、人々の勧めもあり、ついにこの田辺に来た。

    まずは7、8歳から苦学し、永らく海外に流浪し、熊野で不思議学で脳を痛めて慰労にと言って、今度討死学というやつに鋭意し、大いに子分を集め、歌舞吹弾して飲み回り、到底独身では経済が持てないところだったが、妻を迎え、子もでき、幽霊もとんと出ず、不思議と思うことも稀になったが、予はこれを悔いることはまったくない。

    なるほどただ今とても閑殺されて、人と無用の雑談をしちらし、話の種に困る折など、こちらのまさに言おうとするところを人が言い、人がまさに言おうとすることを自分が言い出して、その奇遇に驚くなどの例は少なくないので、変態心理学者のいわゆる以心伝心くらいのことがあるのを予は疑わない。

     しかし、予がみずから経験した神通、千里眼的な諸例を、虚心平気に考察すると、それほど解説できないほどの不思議なことはひとつもない。人間が物を考えるとき、必ずしも論理法に示すような正式を踏んではしない。故ハーバート・スペンサーなども、常人は日常の考慮に順序通りに推理することははなはだ稀で、多くは直接到達を用いる、と言っている。

    仏経に一日一夜に八万四千の念ありと言い、楊朱が当身のこと、あるいは聞きあるいは見ても、万々一を識らず、目前のこと、あるいは存じ、あるいは発するを、千に一を識らず、と言ったように、何の気も留めずぶらぶら見聞きし思慮したことは忘れやすいものである。

    また心理学者のいわゆる閾下考慮(サブリミナル・ソーツ)、仏説にいわゆる末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)のようなものがあって、昼夜静止なく考慮し働きながら、本人みずからしっかりと覚えていない一種の脳力ありとすれば、予が多年の経験より類推して、みずから知らないうちに、地勢、地質、気候等の諸件、かくのごとく備わっている地には、かかる生物があるかもしれないと思い当たったやつが、山居孤独で、精神に異状を来たしているゆえ、幽霊などを現出して指示すると見える。

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    「千里眼」は『南方熊楠コレクション〈第2巻〉南方民俗学』 (河出文庫) に所収。

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