和歌山、東京、アメリカ
小生は次男で幼少の頃より学問を好み、書籍を求めて8、9歳の頃より20町、30町も走り歩き借覧して、ことごとく記憶して帰り反古紙に写し出し、繰り返し読んでいた。『和漢三才図会』105巻を3年かかって写す。『本草綱目』、『諸国名所図絵』、『大和本草』などの書籍を12歳のときまでに写し取った。また漢学の先生について素読を学ぶのに『文選』のなかで難読の、魚へんや木へんの難しい文字で満ちている「江の賦」「海の賦」を一度師匠の読むのを聞いて2度めからは師匠より速く読んだ。
明治12年に和歌山中学校ができてそれに入ったが、学校での成績はよくない。これは生来、事物を実地に観察することを好み、師匠のいうことなどは間違いが多いものと知っているため、一向に耳を傾けなかったためである。
明治16年に中学を卒業したのが学校卒業の最後で、それから東京に出て、明治17年に大学予備門(第一高中)に入ったが、授業などは心にとめず、図書館に通い、思うままに和漢の書籍を読んだ。したがって欠席が多くて学校の成績はよくない。19年に病気になり、和歌山へ帰り、予備門を退校して、19年の12月にサンフランシスコへ渡った。
商業学校に入ったが、一向に商業を好まない。20年にミシガン州立農学に入ったが、キリスト教を嫌ってキリスト教の教義の混じった倫理学などの諸学科の教場へ出ず、欠席することが多く、ただただ林野を歩いて、実物を採りまた観察し、学校の図書館にだけ詰め切って図書を写して抜き書きした。
そのうち、日本の学生がかの国の学生と喧嘩することがあった。これは haze といって、上級の学生が下級の学生を苦しめるのをしきたりとする悪い風習がある。小生と村田源三(山県、品川、野村三家から学費を支給されてこの学校にいた人、嘉納治吾郎氏同門で柔道の達人。嘉納氏も腕力は及ばないほど剛力の人だ)、三島桂(中洲の長男。毎度父を困らせ、新聞をにぎわせた、はなはだ乱暴な人。ただ今式部官であると聞く)二人と話している日本語がやかましいといって、学校の悪少年ら4、5人が部屋の戸を釘付けにし、外へ出れなくした上、ポンプのホースを戸の上の窓から通し、水を室内へ注いだのだ。
そのとき、村田が剛力で戸を破り、三島はピストルを向けて敵をおびやかした。小生はさしたる働きもしなかったが、このことが大評判となり、校長の裁判で学生3人ほどが1年間の停学を命ぜられる。この裁判の訴文を小生がしたためたことから、小生を誉める者と憎む者とがあった。その年も終えて寄宿生一同帰郷の前夜、小生を誉める者たちが、小生ら三人と寄宿室で小宴を開いた。
そのとき、ひとりが町に行って、ウィスキーを買ってきて、おびただしく小生に飲ます。その場はたしかであったが、自分の部屋のある建物に帰る途中うちに、雪をかぶっておびただしく酔いを発し廊下に臥した。校長ウィリッツ(後に農務大臣次官で終わられた。このとき、60余歳の人)が雪を冒して寄宿舎を見回るうち、小生が廊下にうつぶして寝ているのを見、村田を呼んできて、灯りを向けてこれを見せた。村田は大いに弱り果て、小生を校長とともに助け負って小生の部屋に入れた。
翌朝早く目を覚ましたが、 村田が来て右の次第をいう。日本人学生一同が話し合った結果は、このような珍事があった上は遅かれ早かれ今度は日本人学生が校長の裁判を受けない分けにはいかないだろう、そのときは3人ことごとく飲酒のかどをもって放校されるだろう、不承はあるだろうが、熊楠ひとりがその罪を負ってすみやかに脱走してはどうだろうか、とのこと。
そして当夜集まって飲んだ米人学生らもなにとぞそのようにしてほしいと望む。大勢が放校されるところをひとりで事が済むならば結構だと、小生は翌朝4時に起き、毛氈(もうせん:獣毛をフェルト状に加工して織物のようにした布)1枚を持って雪のなかを走って(7マイルばかり)ある停車場に着き、それからアナバーという所に至ってとどまる。