法律が苦手
当時県庁から役人を派遣して説論させ、また県知事みずから長文の論書を出したことなどは(知事も学務課長も)法学士にしてははなはだ不穿鑿なことで、1年後に東京で控訴院判事尾佐竹猛氏に聞いたが、家と家との間には必ず3尺の空間を空けおかなければならないと明文があり、またこれを犯した者を訴えて改築させることをできれば、損害賠償を取ることもできるとのこと。
もと当地で検事であった、田村四郎作という新宮の弁護士が去年の秋来訪されたときも、民法にその箇条があるといって示され申した。小生はいろいろの学問をかじったが、亡父が、亡兄のことを法律を振り回して多くの人に憎まれて最後は破産するだろう者だ、熊楠は絶対に法律に明るくなってはならない、と言われたのを守って、少しも法律を心得なかったため、このような屈することができないことをも屈しなければならないヘマをやらかし申した。
催眠術などで承知の通り、精神強固でないうちに尊長の言い聞かせたことは、後年までもその人の脳底に改革できない印象を押しつけ申す。シベリアの土着民の間で、男にして女の心性をもつ者が多い。これは戦に勝った者が負けた者の命を取るべきところを許してやり、その代わりに以後必ず女になれと言い渡すのだ。
精神強固でない土着民のことなので、それより後は心性がまったく婦人に化し、一切男子相応の仕事はできず、台所縫織の仕事だけつとめ、はなはだしい場合は後庭を提供して産門に代え、主人の欲を満たして平気であるようになる。
小生は脳が堅固でないうちに、家が商売をするについて金のためにいろいろ人が苦しむのを見、前状に申し上げたことと思うが、自分の異母姉が博徒の妻となって、その博徒が金の無心に来て拘引されるところなどを見、また父が常々、兄が裁判所場仮に出て金を得て帰ってくるのを見て、法律法律というものは人情がなくなる、金を儲けることが上手でも必ず人望を失ってついには破滅するだろうと教えたのを、幼い脳底に印したので、金銭と法律にはいたって迂遠なのがひとつの大きな欠点でござる。
研究所を企てることになってから、やむを得ず金銭や法律のことをも多少懸念するようになったが、ほんの用心を加えるというだけで、この頃の金欲万能の舎弟その他から見れば、まるでおぼうさんであるのは論ずるまでもない。これのために一歎もすれば、また自分の幸福かとも喜び申す。
小生は口も筆も鋭く、ずいぶん人を困らせたことの多い男であるけれども、今だまったく人に見捨てられない。一昨々年36年めで上京したとき、旧知の内田康哉伯爵(当時の外務大臣)、岡崎邦輔氏ら、みな多少以前に迷惑をかけたことのある人々だけれども、そのような顔もせず紀州の名物男を保存しようといってそれぞれ出資され、ことに郵船会社の中島滋太郎氏をはじめ、旧友という旧友が等しく力を尽くして寄付金を募り贈られ申した(47円をもって汽車の中で牛乳2本だけを飲んで上り、3万3000円ほど持ち帰り申した)。
明智光秀というのは主君を弑した不道の男である。一方で最期の戦争ははなはだ拙かった。武勇の甥、明智左馬之介に、あったところで何の役にも立たないわずかな軍勢を分ち率いて空しく安土の城を守らせたように。しかしながら、山崎の一戦で、その将士はことごとく枕を並べて討死にいたした。四方天、並河、内藤をはじめ、いずれも以前光秀とは敵であったがやむを得ず降参した人々である。それなのにその人々がひとりも背かずまた逃れずに光秀のために討死にいたした。
小生は善悪ともにとても光秀の比較にならない男ながら、右に申す通り、多くの人々が30余年、20余年の後も旧交を念じ、旧怨を捨てて尽力くだされたのは、小生が金銭と法律のことにあまり明らかでないことからのひとつの利得かと存じ申す。そのとき集まった金に本山彦一氏からの5000円の寄付を合わせて、今も3万9000円余りは少しも減らさず、預けてある。
小生の弟は多額納税者ながらも3年経った4年めの今日まで約束の2万円を出さず、また親戚どもから集まったはずの5000円もくれない。これはやはり小生が金銭と法律に明らかでないことの損でござる。一得一失は免れられないものかと存じる。
西洋では親が子を罵ることを大いに忌む。ドイツの昔話に、父が子供3人に皆ろくでなしだ、鳥になれと言ったところ、たちまち鳥に化し飛び去ったという話がある。実話ではないが、女になれと言われて女になることもあるので、拠り所がないわけではない。