馬に関する民俗と伝説(その28)

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馬に関する民俗と伝説インデックス

  • 伝説一
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  • 性質
  • 心理
  • 民俗(1)
  • 民俗(2)
  • 民俗(3)
  • (付)白馬節会について

  • (性質3)


     それから、同書巻十一に、津軽辺で三歳の駒、左の耳にたけ一寸九分くらいの角生え、曲り、黒く堅し、ただし本の方は和らかくして、また右の方にも生え立ちし角見え申し候と見ゆ。『梅村載筆』に、義堂の詩三句ながら同字を蹈む事日本で始めなり、その詩は、〈馬頭角を生ずるはまた難きにあらず、山上に舟を遣るもまた難からず、難きはこれ難中の難一あり、夕陽門外人を待つこと難し〉。この起句は、文部省刊行俚謡集、伊賀阿山郡の木遣歌きやりうたに、牛の上歯に駒の角、師走たけのこ寒茄かんなすび、山の上なる蛤やとある通り、馬の角をないにきまった物としたので、支那でも燕太子丹、秦に人質だった時、燕に帰らんと請うと、秦王烏の頭が白くなり、馬に角生えたら許そうといった、そこで丹、天を仰いで歎くと烏たちまち頭白く馬角を生じたので、燕へ帰るを得たそうじゃ。

     『和漢三才図会』六八に、立山の畜生が原は、昔奥州の藤義丞なる者、ここでしきりに眠り馬に変じ、あまつさえ角を生ぜるを、今に本社の宝物とすと。『観瀾集』に、
    〈大石家馬角一枚を蔵す、伝えていわく上総介かずさのすけ小幡信定おばたのぶさだ(武田家の勇士)乗れる馬生ずるところ云々〉。

    『広益俗説弁』二十に、俗説にいわく、馬角は宝なりという、今按ずるに、『史記』文帝十二年、〈馬あり角呉に生ず〉、漢『京房易伝』いわく、〈臣上をあなどりて政順わず、その妖馬角を生ず〉、『呂氏春秋』いわく、〈人君道を失い馬角を生ずるあり〉、これを以て見れば、宝とすべき物にはあらずとづ。『物異志』曰く、〈漢の文の時、呉に馬あり角を生ず、右角三寸左角二寸〉。

    これらを対照して、馬の角はややもすれば左右不等長だと知る。今も稀にあると見えて、数年前ドイツ辺に、馬角を生じた記事を、『ネーチュール』で読んだがその詳細を知らぬ。英語でホールンド・ホールス(角馬)と呼ぶは、またニュウともいい、羚羊の一属で二種あり、南阿と東阿に産したが、一種は多分はや絶えたであろう。牛と馬と羚羊を混じた姿で、尾と※(「髟/宗」、第4水準2-93-22)たてがみは殊に馬に近い。手負ておうた角馬に近づくはすこぶる危険な由、一九一四年版パッターソンの『ゼ・マン・イータース・オヴ・ツァヴォ』に述べある。

     それから古ローマのネロ帝は荒淫傑出だったが、かつてそろいも揃って半男女ふたなりの馬ばかりり集めてその車を牽かしめ、異観に誇った(プリニウスの『博物志ヒストリア・ナチュラリス』十一巻百九章)。以前ローマ人は、半男女を不祥とし、生まれ次第海に投げ込んだが、後西暦一世紀には、半男女を、尤物ゆうぶつの頂上として求め愛した。

    男女両相の最美な所を合成して作り上げた半男女神ヘルマフロジツスの像にその頃の名作多く(一七七二年版ド・ポウの『亜米利人の研究ルシェルシュ・フィロソフィク・シュル・レサメリカン』一〇二頁)、ローマ帝国を、始終して性欲上の望みを満たさんため、最高価であがなわれたは、美女でも※(「女+交」、第4水準2-5-49)わかしゅでもなくて、実に艶容無双の半男女だったと記憶する。

    ネロ帝はその生母を愛して後これをしいし、臣下の妻を奪って后としたが、その后死んで追懐やまず、美少年スポルス亡后に似たればとて、これを宮し女装せしめて后と立て、民衆の眼前に、これと抱擁親嘴しんししてうらやませ楽しんだというほどの変り物で、その后が取りも直さず半男女同然故、それ相応に半男女の馬に車を牽かせたものか。

    天野信景あまのさだかげの『塩尻』巻五三に、人男女の二根を具するあり、獣もかかる物ありやという人はべる、予が采地愛知郡本地村民の家に、二根ある馬ありて、時々物を駄して来る、見るにいとうるさく覚え侍るといえるは、その見ネロに勝る事遠しだ。

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    「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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