田原藤太竜宮入りの話(その2)

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田原藤太竜宮入りの話インデックス

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     秀郷都に帰つて、後この絹を切つて使ふに更に尽くる事なし、俵は中なる納物いれものを、取れども/\尽きざりける間、財宝倉に満ちて、衣裳身に余れり、故にその名を、俵藤太とはいひけるなり、これは産業のたからなればとて、これを倉廩そうりんに収む、鐘は梵砌ぼんぜいの物なればとて、三井寺へこれを奉る、文保ぶんぽう二年、三井寺炎上の時、この鐘を山門へ取り寄せて、朝夕これを撞きけるに、あへて少しも鳴らざりける間、山法師ども、にくし、その義ならば鳴るやうに撞けとて、鐘木しもくを大きに拵へて、二、三十人立ち掛りて、れよとぞ撞きたりける、その時この鐘、海鯨くじらゆる声を出して、三井寺へかふとぞ鳴いたりける、山徒いよ/\これをにくみて、無動寺むどうじの上よりして、数千丈高き岩の上をば、ころばかしたりける間、この鐘微塵みじんに砕けにけり、今は何の用にか立つべきとて、そのわれを取り集めて、本寺へぞ送りける、ある時一尺ばかりなる小蛇来つて、この鐘を尾を以てたたきたりけるが、一夜の内にまた本の鐘になつて、きず付ける所ひとつもなかりけり云々。

     この鐘に似た事、支那にてこれより前に記された。予が明治四十一年六月の『早稲田文学』六二頁に書いた通り、『酉陽雑俎』(蜈蚣むかで退治を承平元年と見てそれより六十八年前に死んだ唐の段成式著わす)三に、歴城県光政寺の磬石けいせき膩光つやしたたるがごとく、たたけば声百里に及ぶ、北斉の時、都内に移し撃たしむるに声出ず、本寺に帰せば声もとのごとし、士人磬神聖にして、光政寺をしたうとうわさしたとある。

    『続古事談』五に、経信大納言言われけるは、玄象という琵琶は、調べ得ぬ時あり、資通大弐だいに、この琵琶をくに調べ得ず、その父済政なりまさ、今日この琵琶ひがめり、弾くべからざる日だと言うた、経信白川院の御遊に、呂の遊の後律に調べるについに調べ得ず、古人のいう事、誠なるかなと言われたとある。和漢とも貴重な器具は、人同様心も意気地もありとしたのだ。鐘が鳴らぬからとて、大騒ぎして砕いたなど、馬鹿げたはなしだが、昔は、東西ともに大人が今の小児ほどな了簡の所為多く、欧州でも中世まで、動物と人と同様の権利も義務もありとし、証人に引き、また刑の宣告もした(『ルヴィユー・シャンチフィク』三輯三巻、ラカッサニュの説)。

    されば時として、無心の什器じゅうきをも、人と対等視した例もすくなからず、一六二八年、仏国ラ・ロシェルに立て籠った新教徒降った時、仏王の将軍、かの徒の寺に懸けあった鐘を下ろし、その罪を浄めるため、手苛てひど笞懲うちこらしたは良かったが、これを買った旧教徒に、王人をして代金を求めしむると、新教徒が旧教に化した時、その借金を払うに三年の猶予ある、因ってこの鐘も三年待ってくれと言ったとは珍譚じゃ(コラン・ド・プランチー『遺宝霊像評彙ジクショネール・クリチク・デー・レリク・エ・デー・イマージュ・ミラクロース』一八二一—二年版、巻三、二一四頁)。

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    「田原藤太竜宮入りの話」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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