猪に関する民俗と伝説(その9)

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     前項に享保三年に出た『乱脛三本鑓』に見る「向うししには矢も立たず」てふ諺を説いたが、野猪の事としてはどうも解し得ない。その後それより三十二年前、貞享じょうきょう三年板『諸国心中女』を見ると、巻四「命を掛けし浮橋」の条、京都の西郊に豊かに住む人の美妻が夫の仕う美少年と通じ、夢を見て大いに悔悟し夫に向って始終を語り歎くと「向う鹿に矢の立たぬと男やすく赦してけり」とある。

    英国等の鹿は窮すれば頭を下げ角を敵に向ける。日本のもそうするのであろう。それを低頭して哀れを乞うものと見てくだんの諺を作ったものか。鹿はカノシシ、野猪はイノシシ、紀州の鹿瀬、井鹿、いずれもシシガセ、イジシ。どちらもシシと古く呼んだのでこの諺にいうシシは、野猪でなくて鹿であろう。

     ついでにいう。『甲子夜話』続篇八〇に、松浦天祥侯程ヶ谷の途の茶店にて野猪の小なるをほふるを見る。毛白くして淡赤なり。あやしく思いその名を聞くにカモシシと答う。問うカモシシは角あるにあらずや。曰く、それはカモシカ、これはカモシシにて違い候と。珍しき事と聞き過ぎぬと記す。

    普通に深山に住むニクといいて山羊に似た獣をカモシカともカモシシとも呼ぶ(『重訂本草啓蒙』四七)が、丹峯和尚の『新撰類聚往来』上に※[#「けものへん+完」、305-13]猪カモシシと出す。※[#「けものへん+完」、305-13]字音豹と『康煕字典』にあるのみ、説明がない。しかしかんかん[#「けものへん+權のつくり」、305-14]と同音故、※[#「けものへん+權のつくり」、305-14]の字を※[#「けものへん+完」、305-14]と書いたと見える。

    郭璞かくはくの『爾雅』註に猯と※[#「けものへん+權のつくり」、305-15]を一物とす。李時珍は、猯は後世の猪※[#「けものへん+權のつくり」、305-15]、※[#「けものへん+權のつくり」、305-15]は後世の狗※[#「けものへん+權のつくり」、305-15]で、二種相似て異なりと説いた。

    モレンドルフ説に、猪※[#「けものへん+權のつくり」、305-16]はメレス・レプトリンキュス、狗※[#「けものへん+權のつくり」、305-16]はメレス・レウコレムス。小野蘭山は、猪※[#「けものへん+權のつくり」、306-1]すなわち猯は、日本でマミまたミダヌキまたキソノカワクマと称え体肥えて走る事遅し、狗※[#「けものへん+權のつくり」、306-2]は、駿河するがでアナホリと呼び体せて飛鳥のごとしと述べた。

    貝原益軒は、猯マミ、ミタヌキともいい、野猪に似て小なり、味善くして野猪のごとしといった。和歌山旧藩主徳川頼倫侯が住まるる麻布あざぶのマミ穴の名、これに基づく事は『八犬伝』にも見える。このマミは今日教科書などに専らアナクマ、学名メレス・アナクマで通り居るもので、形も味も野猪にほぼ似て居るが啖肉獣で野猪の類じゃない。日本に専ら産し支那の猪※[#「けものへん+權のつくり」、306-7]と別らしいが、大要は似て居るから本草学者がこれを猯一名猪※[#「けものへん+權のつくり」、306-7]に当てたのだ。

    しかしよく考えると、本草家ならでも丹峯和尚もこの獣を知りて猪※[#「けものへん+權のつくり」、306-8]に当て※[#「けものへん+完」、306-8]猪と書いたので、その頃これをカモシシと呼んだその名がわずかに程ヶ谷辺に延宝年間まで残りたのだ。氈和名カモ、褥呉音ニク、氈にも褥にもなったので、羚羊をニクともカモシシまたカモシカというといえば、マミの毛皮も氈の用に立てたのでカモシシといったものか。

    とにかく松浦侯が程ヶ谷で見たカモシシは野猪でなくて、外形ややそれに似たマミすなわちアナクマだ。しかして蘭山のいわゆるアナホリは、マミの一異態か只今判じがたい。(『本草綱目』五一。『重訂本草啓蒙』四七。『大和本草』一六。『円珠菴雑記』鹿の条。『皇立亜細亜協会北支那部雑誌』二輯十一巻五二—五三頁。)

     また前項にちょっと述べ置いたトルーフル菌は欧州に食道楽の旅をした人のあまねく知るもので、予は余りゾッとせぬが彼方かなたでは非常に珍重し、予の知人にトルーフルを馳走するとの前置きで、いかがわしい女を抱き捨て御免にして智謀無双と自ら誇っていた者があった。真正のトルーフルは一八九七年までに三十五乃至ないし五十五種ほど発見されいた。

    松村博士の『帝国植物名鑑』上に、チュンベルグの『日本植物編』に拠って本邦にも一種あるよう出しおれど、白井博士の『訂正増補日本菌類目録』にはこれを載せず。予はこの二十三年間鋭意して捜したれど、わずかにトルーフルに遠からぬエラフォミケス属の菌に寄生するコルジケプス一種を獲たばかりで、真のトルーフルを見出さない。

    真のトルーフル中最も重要なはチュベール・メラノスポルム。これは円くてあらいぼを密生し、茶色または黒くその香オランダいちごに似る。上等の食品として仏国より輸出し大儲けする。秋冬ブナやカシの下の地中に生ず。イタリアでもっとも貴ばるるチュベール・マグナツムは疣なく、形ザッと蜜柑みかんの皮を剥いだ跡で嚢の潰れぬ程度にひらめたようだ。色黄褐で香気はねぎ乾酪チーズまじえたごとし。だから屁にもちょっと似て居る。秋末、柳や白楊や樫の林下の地中また時として耕地にも産す。

    前年御大典に臨み、外賓に供するに現なまのトルーフルと緑色の海亀肉を用いたらそっちもよろこびこちらも儲けると、今更気付いた人あって、足下そっかは当世の陶朱子房だから何分播種はしゅしくれと、処女を提供せぬばかりに頼まれたが、所詮盗人を見て縄をなう急な相談で、紀州などには二物ともに恰好の地があるがそう即速には事行かなんだ。

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    「猪に関する民俗と伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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