萃点
さて、物心事の上に理不思議がある。これはちょっと今はいわない方がよろしかろうと思う。右述のように精神が疲れているので十分に言い表し得ないからである。これらの諸不思議は、不思議と称するものの、大いに大日如来の大不思議と違って,法則さえ立てば、必ず人智で知りうるものと思考する。
さて、妙なことは、この世間宇宙は、天は理であるといったように(理は筋道)、図〔※図は本で見てください。『南方熊楠コレクション〈第1巻〉南方マンダラ』 (河出文庫)296頁)のように(図は平面にしか描けない。じつは高さ、幅の他に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方からも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数は無尽である。だから、どこひとつをとっても、それを敷衍追求するときは、いかなることをも見いだし、いかなることをもなしうるようになっている。
そのはかどりに難易があるのは、図中(イ)のようなのは、諸事理の萃点(すいてん)なため、それをとると、いろいろの理を見いだすのに容易で早い。(ロ)のようなのは、(チ)(リ)の2点へ達して、初めて事理を見いだす道筋にたどりつく。それまではまず無用のものなので、入り用だけなことに汲々としている人間にはちょっと考え及ばない。(ニ)もまたそうである。
(ハ)のようなのは、さして入り用ではないことながら、2理の会萃しているところなので、人が気付きやすい。(ホ)もまたそうである。(ヘ)ことに(ト)のようなのは、(人間を図の中心に立つものとして)人間に遠く、また他の事理との関係がまことに薄いから、容易に気付かない。
また実用が差し当たりない、(ヌ)のようなのに至っては、人間の今日の推理の及ぶことができる事理の一切の境のなかで、(この図に現ずる〔ヌ〕をそのようなものとして)(オ)(ワ)の2点で、かすかに触れているだけである。(ル)のようなのは、あたかも天文学上にある大彗星の軌道のように、(オ)(ワ)の2点で人間の知りうる事理に触れている(ヌ)、その(ヌ)と少しも触る所がないが、近い所にあるので、多少の影響を(ヌ)に及ぼすのを、わずかに(オ)(ワ)の2点を媒介として、こんな事理ということはわからないながら、なにか一切ありそうだと思う事理の外に、どうやら(ル)という事理がありそうに思われるというぐらいのことを想像し得るのだ。
すなわち図中の、あるいは遠くあるいは近い一切の理が、心、物、事、理の不思議で、それの理を(動かすことはできないが)道筋を追跡することができたのだけが、理由(じつは現象の総概括)となっているのだ。
さて、これらはついには可知の理の外に横たわって、今少し眼鏡を(この画を)広くして、いずれかで(オ)(ワ)のように触れた点を求めなければ、到底追跡の手がかりがないながら、(ヌ)と近いから多少の影響から、どうやらこんなものがなくてはおかしいと思われる(ル)のようなものが、一切のわかり、知り得ることができる性の理に対する理不思議である。
さて、すべて画に現われた外に何があるか,それこそ、大日、本体の大不思議である。それまではここに説かずして、史籍以来また今ある史籍一切の前に人間が知り得た理は必ずしも今の物不思議の範囲内に限らないとことと思う(この傍証のひとつにいうのに、近頃アッシリアの大開化のことが大いにわかってきた。小生はいまだその概略すら聞いていない。しかしながら、人から聞くと、それを読むときは,今日開化の頂上という欧州の開化、欧州の知識などは、それに比べて、よく人間もこれほど堕落したものかと思うほどであるとのこと)。
また、その方法としても、今の機械的、数量的でなければ、必ずしも理はわからないものではない。