鶏に関する伝説(その21)

鶏に関する伝説インデックス

  • 概説

  • (4の7)

     十六世紀のバイエルン人、ウルリッヒ・シュミットの『ラプラタ征服記』のドミンゲズの英訳四三頁に当時のドイツ人信じたは、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)わにいき人に掛かれば人必ず死す。また、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)、井中にあるを殺すには、鏡を示して自らその顔の獰悪どうあくなるにおそれ死にせしむるほかの手なしと。されど我自ら三千以上の※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)を食いて、少しも害なかったと述ぶ。これはコッカトリセと※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)を混じたようだが、もとコッカトリセなる語はクロコジル(※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55))と同源より生じ、後コク(雄鶏)と音近きより混じて、雄鶏の卵より生まるる怪物とされたのだから(ウェブストルの大字書、コッカトリセの条)、シュミットの見解かえって正し、熊楠由っておもうに、バシリスクが自分の影を見て死するものがたりは、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)の顔至って醜きより生じたのであろう。

    ジェームス・ローの『回教伝説』に、帝釈たいしゃくの天宮に住む天人、名はノルテオクが天帝の園に花を採る若い天女に非望をいだいた罰として、天帝を拝みに来る諸天神の足を浄める役にされたが、追々諸神の気に入ってついに誰でも指さして殺す力を得た。それからちゅうものは、少しくしゃくさわる者あればすなわち指さして殺すので、天帝すこぶる逆鱗あり、ヴィシュニュの前身フラ・ナライ(那羅延)に勅して彼をちゅうせしむと来た。ナライ小碓皇子おうすおうじの故智をならい、花恥ずかしき美女に化けて往くと、ノンテオクたちまちれて思いのありたけ口説くどく。あなたは舞の上手と聞く、一さし舞って見せられた上の事と、特種の舞を所望した。その舞を演ずるに舞人しばしば食指で自分を指さす定めだが、ノンテオクはナライの色に迷うて身を忘れ、舞を始めて自ら指さすや否や、やにわに死んだが、その霊地に堕ちて夜叉やしゃとなり、それから転生してランカ島の十頭鬼王となった(大正九年のこと別項「猴の話」)。

    勢力強大にして天威を怖れず、また天上に昇って天女を犯さんと望み、押し強くも帝釈宮の門まで往ったが堅くざされてヤモリが一疋番しおり、この金剛石門は秘密の呪言で閉じられいるから入る事はかなわぬと語る。鬼王あるいはへつらい、あるいは脅してとうとうヤモリから秘を聞き、一度唱えると天門たちまち大いに開け鬼王帝釈に化けて宮中に入る。その時、帝釈、天帝に謁せんとカイラス天山に趣く、留守の天女ども、鬼王が化けたと知らず、帝釈帰ったと思うて至誠奉仕し、鬼王歓を尽くして地に還る。真の帝釈、宮に帰って窓より鬼王が望みを果して地に還れるを見、大いに怒ってヤモリに向い、今後一定時に小さい緑色の虫汝の体に入り、心肝二臓をくらうぞと言うたので、ヤモリはいつもさような苦しみを受くる事となった。

    かくて帝釈は、天女どもを鬼王に犯されたと思うと焼けてならず、天帝に訴える。そこで天帝、帝釈の魂を二分し、一を天上に留め、他の一を地に下して、羅摩と生まれて、ランカを攻めて鬼王を誅せしめたとあるが、これはラーマ王物語を回教徒が聞き誤った一異伝で、果してこの通りだったら、羅摩は前生帝釈たりし時、妃妾を鬼王に犯され、その敵討かたきうちに人界に生まれて、またその后シタを鬼王に奪われ、色事上返り討ちに逢ったヘゲタレ漢たるを免れぬ。くだんのヤモリはその鳴き声に因ってインドでトケー、インドシナでトッケと呼ばる。わが邦で蜥蜴をトカゲというに偶然似て居る。

    また支那でヤモリを守宮というは、くだんの『回教伝説』にヤモリ帝釈宮門を守るというに符合する。この属の物は多く門や壁を這うからどこでも似た名を付けるのじゃ。それに張華が、蜥蜴、あるいは※(「虫+偃のつくり」、第4水準2-87-63)えんていと名づく。器を以て養うに朱砂を以てすれば体ことごとく赤し、食うところ七斤に満ちて、始めくこと万しょにして女の支体に点ずれば、終年滅せず、ただ房室の事あればすなわち滅す(宮女を守る)。故に守宮と号す。伝えいう東方朔、漢の武帝に語り、これを試むるに験あり(『博物志』四)といえるは、 はやく守宮の名あるについて、かかる解釈を捏造ねつぞうしたのだ。

     『夫木抄』に「ぬぐくつの重なる上に重なるはゐもりの印しかひやなからん」。『俊頼口伝集』下に「忘るなよ田長たおさに付きし虫の色ののきなば人の如何いかに答へん」「ぬぐ沓の重なる事の重なれば井守の印し今はあらじな」「のかぬとも我塗り替へん唐土もろこしの井守も守る限りこそあれ」中略、脱ぐ沓の重なると読めるは女のひそかに男のほとりに寄る時ははきたる沓を脱げば、自ずから重なりて脱ぎ置かるるなりというた。この最後の歌はかつて(別項「蛇の話」の初項)論じた婬婦の体に、驢や、羊や、馬や、蓮花を画き置きしを、姦夫が幹事後描き替えた笑談と同意だ。右の歌どもはヤモリと井守を取り違えおれど、全く唐土の伝説を詠んだものだ。

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    「鶏に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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