田原藤太竜宮入りの話(その33)

田原藤太竜宮入りの話インデックス

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  • (竜の起原と発達(続き)2)

    それより後は※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)ますます少なくなって蛟とは専ら地下の爬虫孵り出る時地崩れ水き出るをす名となったので、その原由は※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)が蟄居より出で来るよりも主として雷雨の際土崩れ水出で異様の骨骸化石を露わすにあっただろう、『和漢三才図会』四七、〈およそ地震にあらずして山岳にわかに崩れ裂くるものあり、相伝えていわく宝螺跳り出でてしかるなり〉。『東海道名所記』三、遠州今切の渡し昔は山続きの陸地なりしが百余年ばかり前に山中より螺貝ほらがい夥しく抜け出で海へび入り、跡ことのほか崩れて荒井の浜より一つに海になりたる事、唐土の華山より大亀出でし跡池となり田畠にそそぎしごとしと載す、予の現住地紀州田辺近き 堅田浦かただのうらいにしえ陥れると覚ぼしき洞窟の天井なきような谷穴多く(方言ホラ)小螺の化石多し、土伝に昔ノーヅツ(上述野槌のづちか)ここに棲みたけ五、六尺太さ面桶めんつうほどで、頭と体と直角を成して槌のごとく、急に落ち下りて人々をんだといい今も恐れて入らず、これ支那の蛟の原由同然かかる動物の化石出でしを訛伝したらしい、小螺化石多く出るから小螺躍び出て地を崩したというはずのところノーヅツなる奇形化石に令名をしてやられて今もその谷穴をノーヅツと称う。

    ただし『類函』二六、〈福建の将楽県に蛟窟あり、相伝う昔小児あり渓傍の巨螺を見て拾い帰り、地に穴し瀦水ちょすいしてこれを蓄え、いまだ日をえざるにその地横についえ水勢洶々きょうきょうたり、民懼れ鉄を以てこれに投じはじめてむ、今周廻ひろばかりなるべし、水※(「轍」の「車」に代えて「さんずい」、第3水準1-87-15)せいてつにして涸れず〉とあれば、支那でも地陥じすべりと蛟と螺を相関わるものとしたのでその訳を一法螺吹こう。インド人サラグラマを尊んで韋紐ヴィシュニュの化身とし蛇また前陰の相とす、これは漢名石蛇で、実は烏賊いか航魚たこぶねとともに頭足軟体動物ケファロポタたるアンモナイツの多種の化石で、科学上法螺と大分違うが外相はやはり螺類だ、その状蛇や蛟が巻いた像に似居る故これを蛇や蛟の化身と見て地陥りは蛇や蛟の化身たる螺の所為と信じたものか、サラグラマは仏典に螺石と訳し(『毘奈耶破僧事』十一)一の珍宝としあり、鶴岡八幡宮神宝の弁財天蛇然の自然石なるを錦の袋に入れて内陣にあり(『新編鎌倉志』一)というもこれか。近時化石学上の発見甚だ多きにれて過去世に地上に住んだ大爬虫遺骸の発見夥しく竜談の根本と見るべきものすこぶる多い。

    しかし今とても竜の画のような動物は前述鱗蛇、※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)飛竜などのほかにも世界に乏しからぬ。したがって亡友カービー氏等が主張した、過去世に人間の遠祖が当身そのみ巨大怪異の爬虫輩の強梁跋扈きょうりょうばっこに逢った事実を幾千代後の今に語り伝えて茫乎ぼうこ影のごとく吾人の記憶に存するものが竜であるという説のみでは受け取れず、予はかかる仏家の宿命通説のような曖昧な論よりは、竜は今日も多少実在する※(「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55)等の虚張こちょう談に、蛇崇拝の余波や竜巻地陥り等諸天象地妖に対する恐怖や、過去世動物の化石の誤察等をみ重ねて発達した想像動物なりというを正しとおもう。

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    「田原藤太竜宮入りの話」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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