中村啓次郎

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  • 中村啓次郎(なかむら けいじろう)

    中村啓次郎(1867年〜1937年)。明治〜昭和期の政治家。
    和歌山県出身。浜口雄幸内閣では逓信政務次官を務めます。
    政友本党総務、立憲民政党総務・顧問、衆議院議長などを歴任。

    中村啓次郎は第26回帝国議会衆議院で、南方熊楠(1867年〜1941年)が準備した原稿や資料をもとに神社合祀の中止を求める質問演説を行ない,その結果、合祀の強行を政府は止めることになりました。



    中村啓次郎

    南方熊楠の手紙:神社合祀に関する意見(現代語訳3)
    明治43年3月23日、同志の代議士、中村啓次郎氏は衆議院において一場の質問演説をなし、次に44年3月30日大臣官房において、中村氏は平田東助内務大臣と面会し、熊楠が撮っておいた紀州の諸名社濫滅名蹟亡滅の写真を示してこのことを論じたのち、内務大臣よりその年の貴族院でも中村氏同様の質問が盛んに起こったことを承知し、また内務大臣も中村氏と同一意見を持ち、一時に基本金を積まさせ一村一社の制を励行するのを有害と認めるので、4月の地方官会議に再び誤解ないようにさせるように深く注意を加えよう、と約束される(この四月の地方官会議に多少の訓示あったのは、白井氏が前日井上神社局長より得た秘密書類の写しで明らかである。ただし少しも実行されなかった)。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳33)
    そのとき伊勢に生川(なるかわ)鉄忠という神官がいてこのことを論じたが、ただ筆先に止まって何の影響もなかった。小生がこのことを言いだし、代議士中村啓次郎氏に頼み、数回国会に持ち出し、またみずからこれをはなはだしく論議したため、18日間未決監(※みけっかん:刑が確定する前の未決囚を収容する監獄※)につながれたことがあり、その後も止めずにこれを論じ、ちょうど10年めの大正9年に神社合祀は無益とのことを貴族院で議決され申した。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳34)
    大正11年春東京にあったとき、4月12日に代議士中村啓次郎、堂野前種松(小石川音羽墓地3万坪をもち1坪いくらと売った人)2氏に伴われ、山本達雄氏(子爵か男爵か記憶していないため氏と書く)を訪ねた。

    南方熊楠の手紙:フィラデルフィアの顕微鏡(現代語訳4)
    政友会が割れたことで当県の選挙界も事が難しくなり,数日前に人力車から落ち負傷したと聞く中村啓次郎氏は、和歌山市から打ち出る久世豊忠とやり合うらしい。また、岡崎邦輔氏のこれまでの独占地からももう2人候補者が出て、岡崎氏をたたき落としにかかるらしい。

    南方熊楠の随筆:十二支考 馬に関する民俗と伝説(その6)
    これすなわち本邦固有の美風だから、吉凶にかかわって日時をかえるの旧慣を絶つとも、下気は泄出の様子までも公報する外国風を採るなどの事なきを望むと、かく答えた予の書牘しょとくを読んで、誠に万事西洋模倣の今日よいところへ気が付かれたと、昨春田辺へ来られた節まのあたり挨拶あり。それも決して座成的ざなりてきのものでないと見え、何処どことかへ代議士が集った席でも話出て感心しきりだったと、中村啓次郎氏から承った。


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