オニゲナ菌(現代語訳)

南方熊楠の随筆(現代語訳)

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    蟻
    Ant / Jeff Kubina

     拝啓。「草木相生相剋」の話をさっそく差し上げるべきところ、当時、小生、自宅の庭にオニゲナと申す希有のキノコがあるのを見付け、その発生成長に関し、欧州の学者の説を試みるために実験に掛かる。

    たとえばそのキノコの胞子を、毎夜庭の柚の木に来て泊まるミミズクに食わせ、糞に混じって落ちた上で初めて日々の経過を調べることができるのだが、なかなか思う通りに運ばず、20日ばかりしてやっと一団の糞にかのキノコが少し生じたので連日検鏡に奔走中、1匹の蟻に陰茎を噛まれ、身体所々に悪瘡を生じて、俗に陰茎には自防の腺液があってめったに虫に噛まれるものではないと心得、拙者も数年熱地にいて猛烈な蟻群についていろいろ研究したが、1度もそんな眼には遭わなかった。

     しかし、久米博士の〔『大日本時代史』〕「奈良朝史」499頁を見ると、かの「道鏡は面中鼻で参内し」と作られた大法王の偉物は蜂に刺されたことに起こり、また僕が5年前6月の『早稲田文学』に引いた通り〔「『大日本時代史』に載する古話三則」〕、アメリゴの『南米紀行』に、ある民族の婦女が一種の草汁を男子の飲ませてその陰を膨れさせ、それでも足らなければ毒虫に咬ませてこれを倍の大きさにする、そのため過って睾丸を噛み切られ、閹者となる者が多い、とある。

    東洋法律の大根本である『四分律蔵』五五巻に「仏がいわく、五事の因縁があって男根を起たせる。大便が迫る、小便が迫る、風患がある、慰周陵伽虫が噛む、慾心がある。これを五事となす」と見え、『根本説一切有部毘奈耶』には、眠っているときにその根を虫に噛まれ、そのため衣装を乱し、起っているのを達者な婦人が見て就いて非法を行ったので、そのために仏は戒律を定めた、とある。これらは決してまるで虚談でもなかろうと思い、いろいろ故事を集めて一論を草し、英国の梵学者へ送り、大意を抄して、来たる9月の『民俗』に出る拙者の「話俗随筆」に入れ、編者石橋臥波君へすでに廻した〔『民俗』に掲載されず。原稿の所在不明〕。

    さて、いろいろ聞き合わすと、この地方で小児が陰を虫に噛まれて病を引き出す例は少なくないらしく、あるいは当西牟婁郡の海辺で起こる象皮病もこんなことから起こるのではないかと言う人もある。

    とにかく陰を噛んで全身が腫れ出す蟻は何の種のものということを明らかにするため、彼処へ砂糖または鶏の煮汁を塗り、毎日午後件のオニゲナ菌が生えた辺にうずくまっていた。蟻に噛ませる所が所なので、妻は大いに心配し、必死になって思いとどまってくださんせと諌めたが、こうして今に噛まれてみろ、医術上の公益ともなり、たとえ噛まれなかったところで希有のキノコの発生経過について発見するところがあるのだ、女子供の知ることではないと1ヶ月ばかりやっていたが、彼処が湿って痒いばかりで、蟻は一向に来ず、日照りでキノコも消え失せてしまう。

    せめて件の蟻らしい奴を採って、知り合いの五島清太郎博士へ送って鑑定を頼もうと、今まで血眼になって捜したが、これも日照りのため跡を絶って一切見えない。こんなことで「相生相剋」の話は大いに遅れ申します。よって、この詫び言と同時に、もし貴社員および読者諸君の中に、蟻に陰を噛まれる機会があったら、その蟻を取って当方へ送られるよう頼み上げおく。


    「オニゲナ菌」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収

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