ナギについて

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南方熊楠の随筆(現代語訳)

  • 紀州俗伝
  • 山の神に就いて
  • 山神オコゼ魚を好むと云う事
  • ひだる神
  • 河童に就いて
  • 熊野の天狗談に就いて
  • 紀州の民間療法記
  • 本邦に於ける動物崇拝
  • ナギについて

    ※随筆「花さく庭木の話」よりナギに関する部分だけを。

     ナギの花は初夏にさくも目だたない。定家卿の詠に、「千早振る熊野の宮のなぎの葉を変はらぬ千代の例(ためし)にぞをる」。その常緑の葉を神威の尽きざるによそえて社頭に植えたのだ。紀州切部王子のナギの葉をかざして熊野へ参ること、『保元物語』に見え、これをかざすと山道で蛭に吸いつかれぬといい伝う。

     木やり節に、本町二丁目の糸屋の妹娘を欲しさに熊野へ三度詣ったと大層らしく唄えど、これ何ぞいうに足らんや。畏くも白河法皇は前生に蓮華坊という沙門なりしが、熊野信心の法力で天子に再生あったと申すことで、百余度も詣でたまう。さて老後の御幸大儀とあって、都近く三山勧請の御志あり。その時、神の告げにわが住む所には必ずナギ生ずべし、これわが殿舎なり、と。よって諸処をみせしむるに、一夜のうちにナギ生えて大木となった地あり。そこに新熊野宮(いまくまののみや)をたて、洛の三山とて繁昌したが、応仁の兵火に衰えてしまった。また奥州の巫女、多年熊野へ詣でたが、年老いて旅できなくなり、三山を自分の村へ勧請した。その後奥州へ下る者本宮に詣ってねたところ子童現じて、奥州へ往かば名取の老女にこの物を渡しくれ、と言うたと思うと夢さめ、見ればナギの葉に歌にかきあった、「道遠し年もいつしか老いにけり、思ひおこせよわれも忘れじ」。ナギは熊野の神木で、熊野詣りの記念品、よって自笑の小説に、熊野生まれの弁慶の姉をナギの前と名づけた。

     伊豆権現、実は百済の王孫辰爾という学者を祀った社とか。その高祖父辰孫王は、初めて韓国より書籍を持ち来たり、本邦に文学を起こした人だ。『貞永式目』の起請にも、違反者は別して伊豆・箱根両権現の神罰を蒙るとあって、ことに武家にあがめられた。社の境内に高さ十丈のナギがあり、その葉を持たば災いを免れ、鏡に敷けば夫婦中睦まじといったが、天保三年大風で倒れてしまった。ナギの葉は筋強く、いくら引いても切れぬから力柴と呼ぶ。したがって夫婦の縁のきれぬよう、離れていても相忘れぬよう、と鏡の底に蔵めて守りとした。古い投げ節に、「今度ござらばもてきてたもれ、いづのお山のなぎのはを」。元禄十六年板『松の葉』には、「今度ござらばもてきてたもれ、ぎふのお山の檜(ひのき)の枝に浮き世がかりの思ひばを」。

     支那の話に、宋の康王が韓朋の美妻を奪い、朋を殺すと妻は自害した。二人の墓から二本の木が生え、枝も幹も水も漏らさず抱き合うありさまに、王やけてたまらず、伐ろうと思うと、その木が鴛鴦一双に化して飛び去ったという。これを作り替えて『曽我物語』に、夫妻が死んだ淵の中に赤い石二つが出来て抱き合い、また鴛鴦雌雄、その石の上で戯れる。王、気を悪くして見おるところを、その鳥飛びかかって思い羽で首掻き落とし消え失せた。以来思い羽を剣羽(つるぎば)と名づくとした。余の亡母など嫁入った時、鏡に敷いた鴛の思い羽を一生大切にした。羽も葉も夫婦相思い愛する印として思いばといったのだ。

     それからお江戸新吉原万字屋の玉菊は、酒に敗られ二十五歳で死んだ年の新盆の魂祭に、例の盆燈籠が始まったほどの名娼、その三回忌追善の浄曲(じょうるり)「水調子」に、「なぎの枯葉の名ばかりに鏡の底に残るらん、なぎは鏡に残るらん」とある。朝に張郎の婦となり、暮に李郎の妻となる遊女、片時定まる夫もなきにナギの葉の変わらぬ色にその貞操を擬したは、全く筋が合わぬようだが、粉陣もとより孫呉多く、由来男子自惚(うぬぼれ)強し。主に貰うたナギの葉をこの通りと示さるると、自分一人を夫と思えばこそと、打ち込む男多くて遊女が全盛した道理。また故エドウィン・アーノルド男は、日本人は欧米人とかわり神の名をひいて誓言しないとほめたは、以前を知らぬ話で、むかしの邦人は雑談にも誓言を乱発すること今の洋人に同じく、わが輩幼時も、この言違わば親の頭に松三本、すなわち親が墓に埋められるべしと誓言したものだ。されば遊女も、八幡、天道、白癩など神号や恐ろしい病名をひき、また神木のナギの葉かけて誓言したのが多い。

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    「花さく庭木の話」は『南方熊楠全集 第6巻』(平凡社) に所収。

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