山婆の髪の毛(現代語訳)

南方熊楠の随筆(現代語訳)

  • 紀州俗伝
  • 山の神に就いて
  • 山神オコゼ魚を好むと云う事
  • ひだる神
  • 河童に就いて
  • 熊野の天狗談に就いて
  • 紀州の民間療法記
  • 本邦に於ける動物崇拝
  • 山婆の髪の毛(現代語訳)

     

     山婆の髪の毛と那智の辺で呼ぶ物を予はたびたび見た。水で濡れたときは黒く、乾けば色はやや淡くなって黄褐を帯び、光沢があり、やや堅くなる。長さは7〜8寸、また1尺にも及ぶ。杣人などに聞くと、ずっと長いものもあると言う。予が見たのは木の枝に生え垂れ懸かっていて女の髪のようであった。

    前年田辺の人から、近野村の深山中でトリモチを作る輩の不在中に、何者かがその小屋に入り、桶の蓋を打ち破り、中のトリモチを食い尽くし、また所々へ引っ付けてあった。それを調べようと樹の上に上ると、その枝に金色の髭のような、長さ8寸乃至1尺の物が散り懸かっていた、と聞く。

    予が那智山中で初めて見たときは奇怪に思ったが、近づいて取って検鏡して、たやすくそれがマラスミウス属の根様体(リゾモルフ)であることを知ったが、その後、植物学会員宇井縫蔵氏が近野村で取って来たのを貰うと、予想通りマラスミウス属の傘状体(ピレウス。俗にいうキノコの傘)がひとつ生じてあった。ただひとつなので、子細に種名を定めることはできないが、今も保存してある。また今年初夏、田辺の自宅の竹葉が積もった裏からも、2〜3寸のものを見つけた。この種は多くあるが、通常5分ばかりで髪や髭と見えず、今まで気づかずにいた。

     1906年版、スキート、ブラグデン共著『マレイ半島異教人種誌』1巻142頁などに、セマング人が、岩蔓(アカール)といって、普通の靴ひもよりやや細く黒く光るなめし革のような物で、腰帯を織るとすこぶる美しい。ワード教授がこれを検鏡すると、キノコの根様体(リゾモルフ)だった、と出ている。茸毛で編んでいる腰蓑のように縁に流蘇離々としているさまが142〜143頁の図版で明らかである。

    我が国の山人もこのような物を多少の飾りとしたのかもしれない。例の七難の揃毛(しちなんのそそげ。山中に棲む女の妖怪の陰毛)も異様に光るというが、こんな物で編み成したのではないか。また馬尾蜂が尾を樹幹にもみ込んで、多く固まっているのも、蜂が死んで屍を失った上は、髪の毛のように見える。西牟婁郡富里村の山中に、大神の髪の毛と呼ぶ葉のある植物が生じ、樹に懸かると聞く。何か蔓生顕花植物らしい。

    安堵峰辺で、樅の木に着く山婆の陰垢(つびくそ)と呼ぶ物を2つ採ったが、これは鼠色で膠の半凝様のキノコで、裏に細かい針がある。トレメロドン属のものだ。予はこれまでこの属のキノコが日本に産する記録を見たことがない。松村任三博士の『植物名鑑』、白井光太郎博士の『日本菌類目録』にも載せていないが、予は上述の山婆の陰垢と、もう1種全体純白で杉の幹に着くものを那智山で見つけた。いずれも砂糖をかけると、寒天を食うように賞玩できて、全く害は受けない。


    「山婆の髪の毛」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収

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