虎に関する史話と伝説民俗(その17)

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虎に関する史話と伝説民俗インデックス

  • (一)名義の事
  • (二)虎の記載概略
  • (三)虎と人や他の獣との関係
  • (四)史話
  • (五)仏教譚
  • (六)虎に関する信念
  • (七)虎に関する民俗
  • (付)狼が人の子を育つること
  • (付)虎が人に方術を教えた事

  • (仏教譚3)

     玄奘の『大唐西域記』巻三に、北インド咀叉始羅たつさしら国の北界より信度しんど河を渡り東南に行く事二百余里大石門をわたる、昔摩訶薩※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)まかさった王子ここにて身を投げて餓えたる烏菟おとを飼えりとある、仏国のジュリアン別に理由を挙げずに烏菟を虎と訳したが、これは猫の梵名オツを音訳したんだろとビールは言われた、しかしながら前篇に述べた通り虎を『左伝』に於菟とし、ほかにも ※(「木+澤のつくり」、第4水準2-15-64)おと(『漢書』)、※[#「虎+鳥」、41-7][#「虎+兔」、41-7](揚雄『方言』)など作りあれば、烏菟おとは疑いなく虎の事でその音たまたま猫の梵名にく似たのだ。

    それから『西域記』に王子投身の処の南百四、五十歩に石※(「穴かんむり/卒」、第4水準2-83-16)堵波そとばあり、摩訶薩※(「土へん+垂」、第3水準1-15-51)王子餓獣の力なきを愍み行きてこの地に至り乾ける竹で自ら刺し血を以てこれにくらわす、ここにおいてか獣すなわち啖うその中地ところ土および諸草木すこしく絳色こうしょくを帯び血染のごとし、人その地をむ者芒刺いばらを負う、疑うと信ずるとをいうなく、悲愴せざるはなしと出づ。

    玄奘より二百余年前渡天した法顕の紀行にも竺刹尸羅たくちゃしら国で仏前生に身を捨て餓虎に施した故蹟に諸宝玉でかざった大※(「穴かんむり/卒」、第4水準2-83-16)堵波あり、隣邦の王公士民競うて参詣し捧げ物多く花を撒き燈をともして間断たえまなしと見ゆ。結局つまり前出『投身餓虎起塔因縁経』もこの故蹟に附けて出来た伝説らしい。それに後日更に一話を附け加えてその近処の土や草木が赤く地に芒刺多く生えたるに因んで王子身を虎に施す前に自分の血を出して彼に与えたと作ったんだ。近年カンニンガム将軍この捨身処マニーキヤーラの蹟を見出したが土色依然と赤しという(一九二六年ビール訳『西域記』巻一、頁一四六)。

    すべて何国でも土や岩や草花など血のように赤いと血を流した蹟とか血滴ちのしたたりから生えたとか言いはやす、和歌山より遠からぬ星田とかいう地に近く血色のふちある白い巌石連なった所がある、昔土蜘蛛つちぐもを誅した古蹟という、『日本紀』七や『豊後風土記』に景行帝十二年十月碩田国おおきたのくにみゆきし稲葉河上に土蜘蛛を誅せしに血流れてつぶなきに至るそこを血田というとあるのも土が赤かったからの解説いいわけだろ、支那の『易経』に〈竜野に戦うその血元黄〉、これまた野の土や草が黄色の汁で染めたようなを竜が戦うた跡と見立てたらしい、英国ニューフォレストの赤土は昔ここで敗死した嗹人デーンスの血で色付いたと土民信じ、ニュージーランドのマオリ人がクック地峡の赤い懸崖を古酋長の娘の死を嘆いて自ら石片で額をやぶった血の染まる所と伝えるなど例多くタイラーの『原始人文篇プリミチヴ・カルチュル』一に載せ居る。

    沙翁シェキスピヤ好きの人は熟知の通りギリシアの美少年アドニス女神ヴェヌスにへいされしをその夫アレース神妬んで猪と現われ殺した時ヴェヌス急ぎいて蜜汁をその血にそそぐとたちまち草が生えた、これをアドニスとづけわが邦の福寿草と同属の物だが花が血赤い、さてパプロスに近い川水毎夏みなぎり色が赤くなるをアドニス最後の血が流れると古ギリシア人は信じた、またアキスは女魅ガラテアに愛されたが、円眼鬼チクロプスポリフェムス嫉み甚だしく大岩で彼を圧殺し血はしり出るをガラテアがエトナ山下のアキス川に化したという。実はこの小河が岩下より出る故作り出した話だろ(スミス『希臘羅馬人伝神誌字彙ジクショナリ・オブ・グリーク・エンド・ローマン・バヨグラフィー・エンド・ミソロジー』巻一)。アキスてふ草花また彼の血から生えた今欧州諸方に生ずる花藺はないの事だ(グベルナチス『植物譚原ミトロジー・デー・プラント』一)。

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    「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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