田原藤太竜宮入りの話(その6)

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田原藤太竜宮入りの話インデックス

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  • 竜の起原と発達(続き)
  • 本話の出処系統

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     さて秀郷を俵藤太という事、この人初め下野の田原てふ地に住み(あるいはいう大和の田原で生まる、またいう近江の田原を領せり)、藤原氏の太郎だった故、田原藤太といいしを、借字して俵と書くようになって、俵の字を解かんとて竜宮入りの譚を誰かが作り出したであろうと、馬琴ばきんが説いたは、まずは正鵠せいこくを得たものだろう。それから『和漢三才図会』に〈あんずるに秀郷の勇、人皆識るところなり、三上山蜈蚣あるべし、湖中竜住むべし、しかして十種宝物我が国中世用の器財なり、知らず海底またこれを用うるか、ただ恨むらくはその米俵巻絹世に存せざるなり〉という事は、『質屋庫』に引いた『五雑俎』四に、〈蘇州東海に入って五、六日ほど、小島あり、ひろさ百里余、四面海水皆濁るに、独りこの水清し、風なくして浪高きこと数丈、常に水上紅光あらわれ日のごとし、舟人あえて近づかず、いわくこれ竜王宮なり、而して西北塞外人跡到らざるの処、不時数千人樹を□木を※(「てへん+曳」、第4水準2-13-5)くの声を聞く、明くるに及んで遠く視るに山木一空、いわく海竜王宮を造るなり、余おもえらく竜水を以て居と為す、あにまた宮あらん、たといこれあるもまたまさに鮫宇貝闕なるべし、必ずしも人間じんかんの木殖をらざるなり、愚俗不経一にここに至る〉とあるより翻案したのだろう。さて『和漢三才図会』の著者が、〈けだし竜宮竜女等の事、仏経および神書往々これを言う、更に論ずるに足らず〉と結んで居るが、一概に論ずるに足らずと斥けては学問にならぬ、ってこれから、秀郷の竜宮入りの譚の類話と、系統を調査せんに、まず瑣末さまつな諸点から始めるとしよう。

      『氏郷記』に、少時間すこしのまで早く物を煮得る鍋を、宝物に数えたり、秀郷の子孫に限り、陣中女房を召し仕わざる由を特書したので、くだんの竜宮入りの譚は、早鍋世に極めてまれに、また中古の欧州諸邦と等しく、わが邦でも、軍旅に婦女を伴れ行く風が存した時代に出来たと知らる。今も所により、米升こめのますを洗うを忌むごとく、何かの訳で俵の底を叩くを忌んだのに附会して、ある女房俵の底叩いて蛇を出したと言い出したのであろう。外国にも、米と竜と関係ある話がある。これは蛇が鼠をくろうて、庫を守るより出た事か、今も日本に米倉中の蛇を、宇賀神など唱え、殺すを忌む者多し。

      『外国事』にいう、毘呵羅ひから寺に神竜ありて、倉中に往来す、奴米を取る時、竜却後ひっこむ、奴もし長く取れば竜与えず、倉中米尽くれば、奴竜に向い拝すると、倉やがて盈溢みちあふる(『淵鑑類函』四三七)。『高僧伝』三に、〈迦施かし国白耳竜あり、つねに衆僧と約し、国内豊熟せしむ、皆信効あり、沙門ために竜舎を起す、並びに福食を設け、毎に夏坐げざおわるに至り、竜すなわち化して一少蛇とる、両耳ことごとく白し、衆みなこれ竜とる、銅盂どううを以て酪を盛る、竜を中に置き、上座より下に至りてこれを行くこと遍し、すなわち化し去る、年すなわち一たび出づ、法顕また親しく見る〉。

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    「田原藤太竜宮入りの話」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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