孔子

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  • 孔子(こうし)

    孔子(紀元前551年‐紀元前479年)。春秋時代の中国の思想家。儒家の始祖。



    孔子

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳16)
    しかしながら舎弟は表面的には孔子をしのぐほどの聖人君子ぶりの顔をした男ながら、若いとき折花攀柳(※せっかはんりゅう:遊里に遊ぶこと※)とやらで淋病を病み、それをその妻に伝えているのだ。

    南方熊楠の手紙:神社合祀に関する意見(現代語訳1)
    むかし孔子は「やむを得なければ軍備も食糧も捨てよ。信頼は捨ててなならない、 民の信頼がなければ国家は安定しない(『論語』巻第六 顔淵第十二)」と言い、恵心僧都は、大和の神巫(みこ)に「慈悲と正直と、止むを得なければいずれを棄てるべきか」と問うたところ、「万止むを得なければ慈悲を捨てよ、おのれ一人慈悲でなくとも、他に慈悲を行なう力ある人がこれをなすことができるだろう、正直を捨てる時は何ごとも成り立たない」と託宣があったという。俗にも「正直の頭(こうべ)に神宿る」と言い伝える。

    南方熊楠の手紙:神社合祀に関する意見(現代語訳8)
    むかし孔子に子貢が尋ねたことには、殷の法に灰を町に棄てた者を足切りの刑に処せるのは苛酷すぎるのではないか、と。孔子が答えて言うには、決して苛酷ではない、灰を町に棄てれば風が吹く度に衣服を汚し、人々は不快を懐く、自然に喧嘩が多くなり大事を惹き起こすだろう、故に一人を刑して万人が慎むための法である、と。

    南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その7)
    『衝波伝』に孔子山に遊び子路をして水を取らしむ水所にて虎に逢い戦うてその尾をりこれを得懐にれ水を取ってかえる、さて孔子に問いけるは上士虎を殺す如何いかん、子いわく虎頭を持つ、また中士の作法を問うと耳を捉えると答えた、下士虎を殺さば如何どうすると問うと、虎の尾を捉えると答えたので子路自分の下士たるをじ尾を出して棄てたとある。

    南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その29)
    農夫と督耕者と農に益ある禽獣を饗せしは仁の至義の尽なりと『礼記』にめて居る、子貢しこう※(「虫+昔」、第4水準2-87-55)を観る、孔子曰くたのしきか、こたえて曰く一国の人皆狂せるごとし、賜その楽しさを知らざるなり、子曰く百日の※(「虫+昔」、第4水準2-87-55)一日の沢、なんじが知るところにあらざるなり、百日稼穡かしょくの労に対しこの一日やすんで君の恩沢を楽しむ、その休息日に農夫のみか有益禽獣までも饗をけたので、古の君子これを使えば必ずこれに報ゆ、猫を迎うるはその田鼠でんそを食うがためなり、虎を迎うるはその田豕でんしを食うがためなり、迎えてこれを祭るなりとあって、野猪が田を荒らすを虎が防ぎくれるから虎を猫とともに特に祭ったので、わが邦で山の神お犬など呼んで狼をまつり猪鹿が畑を荒らすを防ぐに似たり。

    南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その32)
    アジアの諸民族中にかかる風習が多いので、したがって虎をトテムとした者がすこぶる多かったと知れる、例せば支那に孔子と同時の人陽虎、高辛氏の子に伯虎・仲熊・叔豹・季貍などある、

    南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その34)
    『太陽』大正三年二月号の「支那民族南下の事」に述べた通り、孔子など未来生の事を一向度外に置いたようだが、古支那にも身後の境遇に関し全く何たる信念なかったでない一証は、周末戦国の時宋王が屈原くつげんを招魂する辞に、魂よ帰り来れ、東方には高さ千仭せんじんの長人ありて、人の魂をのみ食わんともとむ、また十日代る代る出て金を流し石をとかす、魂往かば必ずけん、南方には人肉を以て先祖を祭り骨をししびしおとし、また九首の※(「兀+虫」、第4水準2-87-29)ゆうきありて人を呑む、西方には流沙ありて穀物も水もなし、北方には氷雪千里止まる事がならぬ、天に上らんに九関を守る神虎豹あって上らんとする人を害す、また九頭の人あり、豺狼を従え人を淵に投げ込む、下界へ往けば土伯三目虎首、その身牛のごとく好んで人を食う、どっちへ往くもろくな事ないから生きかえり来れとある。

    南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その12)
    孔子※(「耳+(冂<はみ出た横棒二本)」、第3水準1-90-41)ろうたんを見て帰り三日かたらず、弟子問うて曰く、夫子ふうし※(「耳+(冂<はみ出た横棒二本)」、第3水準1-90-41)を見て何をただせしか、孔子曰く、われ今ここにおいて竜を見たり、竜はうて体を成し散じて章を成す、雲気に乗じて陰陽は養わる、われ口張って[#「口+脅」、144-4]う能わず、また何ぞ老※(「耳+(冂<はみ出た横棒二本)」、第3水準1-90-41)を規さんや(『荘子』)。

    南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その12)
    『史記』には、
    孔子きて弟子にいいて曰く、鳥はわれその能く飛ぶを知り、魚はわれその能くおよぐを知り、獣はわれその能く走るを知る。走るものは以てあみを為すべし、游ぐものは以ていとを為すべし、飛ぶものは以て※(「矢+曾」、第4水準2-82-26)いぐるみを為すべし。竜に至ってわれ知る能わず、その風雲に乗りて天に上るを。われ今日老子まみゆ、それなお竜のごときか〉
    とある、孔子ほどの聖人さえ竜を知りがたき物としたんだ。

    南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その24)
    それに竜となると角があったり火を吐いたり、異類異様に振る舞うから、その解決は蛇より数層むつかしく、孔子のいわゆる竜に至っては知るなきなりだ。

    南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その31)
    『博物志』に孔子の弟子澹台滅明たんだいめつめいたまを持って河を渡る時、河伯その璧を欲し二蛟をして船を夾ましむ。滅明左に璧右に剣を操って蛟を撃ち殺し、さてこんな目腐り璧はくれてやろうと三度投げ込んだ。河伯も気の毒かつその短気に恐縮し三度まで投げ帰したので、一旦いったん見切った物を取り納むるような男じゃねーぞと滅明滅多無性にりきみ散らし、璧をこわして去ったと出づ。

    南方熊楠の随筆:十二支考 馬に関する民俗と伝説(その6)
    それは『列子』の説符第八に、三代続いて仁義を行った宋人方の黒牛が白いこうしを生んだので、孔子に問うと吉祥と答えその犢もて神を祭らしめたが、ほどなくその人盲となった。その後その牛また白い犢を生み、孔子に問うと、相変らず吉祥と答えまた祭らしめると、一年してその人の子も盲となり、これでは孔子の予言も当てにならぬと思いいる内、楚軍宋を囲み宋人従軍して多く死す。


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