鎌田栄吉

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  • 鎌田栄吉(かまた えいきち)

    鎌田栄吉(1898年〜1922年)。慶應義塾塾長。
    文部大臣、枢密顧問官、帝国教育会長などを歴任。

    和歌山県生まれ。

    南方熊楠(1867年〜1941年)とはロンドンで出会っています。



    鎌田栄吉

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳4)
    右のダグラス男爵の官房で初めて孫逸仙(※そんいつせん。孫文※)と知人となった。逸仙方に毎度遊びに行き、逸仙はまた小生の家に遊びにきた。逸仙がロンドンを去る前、鎌田栄吉氏を下宿へ連れて行き、岡本柳之助氏へ添え書きを書いてもらった。これが逸仙が日本に来た端緒である(その前にも一度来たが、横浜ぐらいに数日留まっただけである)。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳12)
    そして、この2階に来て泊まり、昼夜快談した人に木村駿吉博士などの名士が多く、斎藤七五郎中将(旅順開戦の状を明治天皇御前に注進申した人。この人は醤油を造るために豆を踏んで生活した貧婦の子である。小生と同じく私塾に行って他人が学ぶのを見て覚え、帰って記憶のまま写し出して勉学したという)、吉岡範策(故佐々友房の甥、柔道の達人、ただ今海軍中将である)、加藤寛治鎌田栄吉孫逸仙(※孫文※)オステン・サッケン男爵などその他多い。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳12)
    一昨々年上京して鎌田栄吉氏より招かれ、交詢社で研究所のことを話すうち、速達郵便で木村氏が100円送られたのこそ、本山彦一氏に次いで寄付金東京での嚆矢であったのだ。

    南方熊楠の手紙:"南方マンダラ",「不思議」について,その他(現代語訳33)
    かつて紀州侯世子頼倫氏に伴われて鎌田栄吉と英学士会院クラブに饗応を受けたとき、陪膳のガウランド氏(田中島造幣所長)が言ったことには、「妙なことは、日本の古代の神剣も、今ここに(そのとき、テームズ川の底から出たのを、世子の覧に供したのだ)ある古ブリトン人の太古の剣も、銅と錫の合わせ方は幾千分の一匁というところまで微細に合致していることだ」。


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